伊藤三郎さん

「日本はアメリカに負けたが、中国には負けなかった」
という歴史認識について
筒井在住伊藤三郎

  私の年齢は77歳です。日本の敗戦の時は中学1年生でしたから、軍事教練の時間に三八銃を持たされたことはありますが、殺し合いの戦争には参加していません。ただ私は外地(中国大連市)で育った、いわゆる引揚者です。父親が敗戦の混乱の中で死に、職も食も無い1年半の抑留生活で、戦後の苦労はいろいろ体験させられました。そんな関係から、帰国後日中友好運動に参加し、1955年の日中友好協会名古屋支部創立に、若輩でしたが参加しています。
  さて、昨年、「愛知平和のための戦争展」等で関係のあった中国吉林省人民政府の招待で訪中、燎原市を訪問しました。吉林省は中国東北部の東端、北朝鮮とロシアのウラジオストックに接した所にあります。燎原市が現在「町起こし」に考えているのは、日中戦争時、イギリス軍のパーシバル将軍が抑留されていた捕虜収容所跡でした。皆さんはパーシバル将軍をご存知ですか?近現代史の人物ですね。今日はその話を糸口に「日本の戦争」と「日本人の歴史認識」について考えてみたいと思います。
  さて、標題のように考える日本人が大変多いように思います。特に改憲論者に多い。そこから日本は日米安保条約で、つまりアメリカの核の傘に入って守ってもらう。米国が希望するなら再軍備もやむを得ないと考えるようです。しかし本当に日本はアメリカだけに負けたのでしょうか?
第2次世界大戦での日本の戦争は「15年戦争」とも呼ばれていますね。1931年の「満州事変」に始まり、太平洋戦争で米、英、オランダ等と戦い、最後にはソ連も参戦して(中国も最後に日本に宣戦布告する)。こうして日・独・伊に対する反ファシズム戦線が結成され、1945年に日本は無条件降伏するわけです。パーシバル将軍が登場するのは1941年で、日中戦争が太平洋戦争に移った時でした。日本は緒戦の勝利に賭け、秘密裏に奇襲攻撃の訓練を続けていました。12月8日、真珠湾攻撃が始まり、アメリカの太平洋艦隊を消滅させました。開戦3日目にマレー沖海戦でイギリス極東艦隊を消滅、シンガポール要塞も陥落、総司令官だったパーシバル将軍が降伏します。
  彼が燎原市の収容所に送られたことは最高秘密事項で、私も今回訪中するまで知りませんでした。
しかし日本軍の勝利は開戦から一年間位で終わりでした。日米間の経済力の差はご存じのとうりで、後はズルズル敗戦に向かい、日本軍の戦死者の大多数が餓死者だといわれます。そういう「日中戦争」から「太平洋戦争」に連続する戦争を、単にアメリカだけに負けたと見るのは正しい歴史の見方でしょうか?
  この時期、中国側は、毛沢東は「持久戦論」で、また蒋介石の駐米大使だった胡適は「日本切腹、中国介しゃく論」を提唱、徹底抗戦を主張しています。どちらの論も中国が勝利する道は、アメリカはじめ各国を対日参戦させるしかない、そのため、どんな犠牲を払うっても徹底抗日すると主張したのです。当時の戦況は、中国の海岸線(全港湾)を日本に抑えられ、領土の中枢部と8割の街を制圧されていました。しかし中国は絶対に降伏しない。これは客観的に見ると、日本陸軍の半数が中国戦線でドロ沼に足をとられたことを意味します。
  また上記のような中国に対する大規模な戦争を日本はやれ「満州事変」だ、「上海事変」だと「戦争」ということを避けてきた。「戦争」には国際法に定めた宣戦布告や捕虜の取り扱い等の人道的条項や禁輸などの経済条項が定められている。日本は「事変」とごまかすことで、戦略物資禁輸条項に抵触しないようにして、密かに備蓄を続けてきた。しかし石油等の戦略物資も底が見えてきた。こうなれば日米開戦を覚悟の上で、英領やオランダ領のアジア産の石油、ゴム、錫等の戦略物資を奪うしかない。こうして毛沢東や蒋介石が見通したとうりに、日本は佛印進駐を機に、侵略戦争を「日中戦争」から「太平洋戦争」に拡大する破滅の道を進んで行ったのです。
  結論的に言えば、日本は何の物資もない国である。だからそれを侵略戦争で奪うのでなく、平和な国際環境、諸国民との交流、相互理解を深めていかなければ成り立っていかない。つまり日本国憲法の示す道、九条を守るべきなのである。冒頭の「アメリカだけに負けた」という日本人の歴史認識は、アジアの相互理解という点で今後大きな問題になると思う。
  燎原市で私は中国側にちょっと意地の悪い質問をしました。
「第2次世界大戦で日本と最も長く、そして辛い戦争をしたのは中国でしょう。そしたら中国の人にも捕虜になる人が出たことでしょう。中国人の捕虜収容所跡はどこかにありますか?」―――この質問の答はなかった。
日本は宣戦布告なしに日中戦争をおこなったから、捕虜に対する人道的行為は無かった。では、降伏した者に対してはどう対応したのか?答は「虐殺」である。南京大虐殺の根本問題は実にここにあるのである。

《この文章は2009年11月7日「東区九条の会文化祭」の中での話を基に、改めて文章化して頂いたものです。》

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服部茂子さん

集団疎開
大幸南在住 服部茂子

 幼い頃の体験として聞いていただけたらと思ってお話しするんですが、私は昭和19年に小学校へ入りました。19年に小学校へ入ったときはおぼえているんですね。親に手を引かれて新栄小学校へ行ったということは覚えているんですけど、その後色々戦闘も激しくなって学校全部が集団疎開をするんです。高学年は日進の山の上のお寺、中学年は中腹のお寺、低学年はふもとのお寺ということで、私は小学校1年生だったので集団疎開には連れて行けれんということで置いておかれたのです。でも国の政策としては「子供を家に置いておいてはいかん、どんなところでも縁故を頼って縁故疎開せよ」というのが方針だったわけです。それで家は両親がみんな一人っ子というのか兄弟がいないし親もいないので、父のいとこの家に縁故疎開をしたんですね。そこは大人ばっかりで子供はいないものだから、みんな働きに行っちゃうわけです、田んぼや畑へ。すると私一人ほっとかれて昼ごはんも食べさせてもらえずに、ショボーっと、もうすごい辛い子供だったのです。そこの納屋に疎開してきたよその人が「あんたご飯食べたか?」と聞かれて、「食べていない」と言って、そこで食べさせてもらうようなそういった感じでした。だからなんかいつもお腹が空いていたな〜という感じでした。そこの家は前に庭があって鶏がコッコ、コッコとおって卵も産んでというそういう家だったんですけども、まぁそこもそんなに豊かな家ではないのは確かなんですけど、それで私の食いぶちを持って親が名古屋から来るわけですよ、1ヵ月に1回くらい。それで私の様子を見て「ちょっと可哀想だぞ」と思ったのか、1年生でも集団疎開してもいいよということになって、それからまた昭和19年の終わり頃ですね、日進の方のお寺へ集団疎開に行ったんです。兄にそれを話したら「みょうしん寺だ」と言ったんですね、「あそうか」と思ってお寺の名前も知らなかったんですけど、そこへ行きました。なんか自分では辛い時の記憶っていうものが全部すっ飛んじゃって、ほとんどおぼえていない。ただ、腹が減ったということと、出てくるご飯は芋の中に米粒が入っているようなお粥とか、それから大豆と米とが半々ぐらいのお雑炊とか、そういうような物でおかずは無しという感じの生活でした。それも決まった量しか食べれないので、いつも自分が働いて何でも食べれるようになったら、何でも食べたくて食べたくて、こういう体型になってしまったんです。だからそれはね、小さい時の恨みが重なり、こういうふうにどんどんどんどん膨らんじゃったんだと思うんですけど、そういう事でした。 それで一番上の兄が、昭和16年に自分で志願して出征したわけです。海軍何とか隊と言って呉のほうにあったんですけど、そこへ行ったんです。1〜2度は休暇で帰ったことはあるんですけど、その時に父は母に「もうあれ(一番上の兄)は帰ってくると思うな。当てにしてはいかんぞ。」というような覚悟をしとけみたいなことを言ったらしいんです。それで昭和19年に戦死したんですね。母が面会に来たときに「大きい兄ちゃんが死んだ」と悲しそうに言ったんですね、母は。その時に私の反応は「あぁ〜家へ帰れるね!」って死んだのが嬉しそうに言ったみたいでね、「家へ帰れるね!」と言ったのを覚えています。そういうことがありました。それで結局帰れはしなかったのですけども、葬式も出せない状態だったので、それで昭和20年の8月に戦争は終わったんですが、すぐには帰れずに10月かそこらに家へ帰ってきました。 その後、昭和21年に父が亡くなったんです。これも私は戦争の犠牲者だと勝手に思うんですけれども、家の父はお酒が大好きで一升酒でも呑む人だったんですね。その人が物資がなくてお酒などとんでもないという時代だったので、闇でメチルアルコールというのを買ったんですよ。「それは10倍に薄めて呑まないかんよ!」と言われとったのをグイグイグイグイと呑んでしまって、脳溢血で倒れて昭和21年の4月に亡くなりました。 私の下に弟がいて、上に5人もいて8人の子供を抱えて母は一人でがんばって、あの頃下駄屋をやっておりまして、本当は母も下駄屋は好きじゃなかったんです。でもそれしか子供を育てるすべがないので嫌々ながらも一生懸命やっておりました。それでどうやらこうやらみんなが一人前になってそれぞれが独立して、最後は穏やかというか自分の好きなところへ行って、旅行に行くのも父の写真を懐に入れて「父ちゃん連れてったった」といって結構仲が良かったようです。 そういう風で今でこそ飽食の時代になっていますけども、やっぱりあの頃の事を思うと本当に惨めで、一つ言えるのは集団疎開というのは子供を大切にするために疎開をさせたというふうに思っていたんですけども、それは違うんですね。子供を親から離すことが目的だったんです。戦争になった場合に子供が足手まといになると戦闘が出来ないし敵が上陸してきたときに困ると、だから「親から子供を離せ」ということで、例えば名古屋の中川区かどこかの子供たちは桑名へ疎開したんですね。桑名の子供たちは四日市へ疎開させ、四日市の子供たちは尾鷲、順番にトコロテン押しにぐるぐる回して要するに親から子供を離すと言うことが集団疎開の目的だったということが今では分かってきています。 そういう中で私にしてはあまりにも悲しい出来事で、ほとんど記憶が飛んでしまっているんですけど、これは思い出話みたいな感じになるのできちんとしたお話は出来ないんですけどこういうことがありました。

この文章は2009年11月7日「東区九条の会文化祭」の中での話を文章化したものです。

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森綾子さん

「戦争は絶対にイヤ」 森 稜子
相生町在住 森 稜子

            私にとっての最初の戦争の記憶は、幼稚園の帰りに、サイレンが鳴ると、送り迎えをしてくれていたおじいさんと、他所の防空壕に入れてもらい乍ら、帰ったとこからです。  思いはあふれる程あるのですが、断片的で順序よく書けませんが、悪しからず。  住んでいたのは鶴舞公園の近くで、今は町名変更でなくなりましたけれど、昭和区小針町でした。小針国民学校へ入学前の身体検査には行きました。でも、入学する時には焼けてしまってありませんでした。もちろん、我が家もお風呂のタイルだけが残っていました。入学式はしていません。油で真っ黒で、裸電球のぶら下がった工場を借りて授業がされていると知らされて、途中から通いました。  家は本家と新家が隣どうしで庭の下では両方の防空壕が鉤の手につながっていた。サイレンが鳴ると、誰に言われなくても、なぜだか今でもはっきりと覚えている防空頭巾の柄、モスリンの桃色と黄緑と白の市松模様で作ってもらったのを冠り、お菓子と救急の用具の入った、小さなカバンをたすきにかけ、一番に入るのは私でした。  コウシャホウジンチ=@B−29=@なんにもわかりません。  千人針も小さな手で、一生懸命に縫いました。  乳母車に乗せられ、濡らしたシーツをすっぽりと掛けられ、火の粉の中を逃げました。シーツをそっと上げ外を見ました。夜空に真っ赤な炎、柱が燃えつき最後に屋根がドサッと落ちる光景は、年老いた脳裏に薄れることなくくっきりと残っています。  また、近所のおばさんの、悲痛な声、それは息子さんが戦死され、お嫁さんが里へ帰られることになり、「お願いだから行かないで!!」と、何度も何度も泣き叫んでいたのです。小学二年生だった私も、悲しくて一緒に泣いていました。その後、そのおばさんは、気が狂われてしまわれたそうです。忘れられません。  それから暫くして、昭和21年12月20日母も栄養が足りず、病気であの世へ旅立ちました。  この明倫コミュニティーセンターの近くに親類がありましたが、女学生だった従姉は三菱重工へ学徒動員で働いていて、爆死しました。これは戦死です。  まだ子どもだった従兄は、自分の片腕を持って逃げる人∞頭のない赤ちゃんをおんぶして逃げるお母さん≠ネど、そんな地獄の中で生き残ったのが不思議なくらいだと話していました。  原爆の図や写真を、学校から見に行った時のこと、心の底からというか身体中が震えた。自分自身、説明のつかない、あのときの感情、恐怖と怒りは、それまで経験したことのないものでした。  私も、三人の母となり、子どもたちが小学生の頃、漫画「はだしのゲン」がでて、親子で読みました。その本は、アメリカから布教できていた人が、アメリカへ持って行きたいと、帰国の際にお供しました。  日頃は「絶対」という言葉を使うのは、あまり好ましくないと思っています。けれど 「戦争だけは絶対にイヤ」なのです。 世界中で最大の無駄は、戦争に使う人とお金だと思います。 世界中の平和を心から願います。

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森井二郎さん

勤労動員と空襲と私の中学生時代
森井 二郎(東区葵在住)

          1,勤労動員
 太平洋戦争開始の直後、つまり1942年(昭和17年)3月に東区の葵小学校(当時国民学校)を卒業し、4月に旧制中学に入学した。  現在地(当時は水筒先町)から古出来町の中学(現、旭丘高)まで、赤萩町のあたりから中央線の線路づたいに歩いて30分以上かかって通学したものだった。(当時、中央線は単線で、家並みと同じレベルをSLが走っていた。)  中学に入って1年2年のうちは、ほぼまともに授業が行われていたが、2年の後半くらいから時々短期の動員にかり出されるようになった。  小牧の飛行場を作るときも動員があった。学校からバスに乗せられて現場に行き、「つるはし」と「もっこ」を使ってほとんど人力だけによる地ならし作業に従事させられた。(当時の日本にはブルドーザーはなかった。)  農繁期の農家の手伝いの動員もあった。これはクラスごとにまとまって近郊の農家へ行き、そこで一軒の農家に2,3人の生徒が割り当てられて、稲刈りとか田植えなどの仕事を手伝うのだったが、農家の人からは、よく働いたと感謝され、帰りに貴重な白米や野菜などのみやげをもらったりして、仕事はつらいが嬉しかった思い出でもある。  中学3年の夏から、いよいよ通年動員が始まる。  動員先は、高蔵寺の陸軍兵器補給廠だった。現在の高蔵寺団地の大部分が、その兵器廠の中に含まれていたはずであるが、当時は雑木林の山の中の要所要所に山をうがって火薬庫が設置されていた。そしてほかの工場から送られてくる砲弾の弾体に火薬を充填し、薬莢をそえて梱包し、戦地へ送り出すのがこの工廠の役割であった。現在もこの工廠の一部が自衛隊の火薬庫として残されている。  私たち中学生の仕事は、主として運搬であったが、時には填薬工場でベルトコンベアに就いて、流れてくる砲弾の分解作業などをすることもあった。これに割り当てられた時は悲惨で、一日中まったくの単純作業にうんざりしたものだった。  一方、運搬の方は、山の中の火薬庫に配置され、トラックが来ると積みこみや荷おろしの作業を行なった。火薬は30キロ入りの木箱で、これを肩にかついで運搬するのだが、今から思うと中学3年の、しかも小柄な方だった私によくやれたものと感心する。  砲弾を運ぶときは、みんなが一列横隊に並び、片手で砲弾一個、両手で同時に二本ずつを持って隣に手送りして運んだ。これは7センチの榴弾で、ちょうどビール瓶くらいの大きさだったが、表面が滑りやすく危険だった。  ある時、手をすべらせて落とした砲弾が、まともに足の親指の上に落下したことがあった。爪が半分くらいはがれ、あまりの痛さに口もきけなかった。工廠内の治療所に行くと、軍医が麻酔もかけず、いきなりはさみで、はがれ残った爪を全部切りとった。薬を塗ってほうたいを巻く。治療はそれだけだった。その晩はとうとう眠れず、うなりながら一夜をあかした。  この工廠に約1年、中学3年から4年の夏まで砲弾運びに明け暮れる生活が続き、その間何度かの空襲も経験した。8月15日の天皇の放送もここの食堂で聞き、不滅を信じていた「神国日本」が敗れたことを知って級友たちと手をとり合って泣いた。しかし、悲憤の涙とこれからどうなるという不安とに交錯して、空襲がなくなることの開放感が大きかったのも事実である。
2,空襲
 初めての空襲は、1942(昭和17)年4月18日だった。中学に入学してまだ10日前後のその日の放課後、私は数人の友人たちと学校の屋上にいた。突然、見なれない双発機が1機、目の前の低空を横切るのを見た。高射砲の砲声も聞こえてくる。私たちは「見たことのない型だな。きっと最新型だぞ」とか、「今日の防空演習、えらい本格的にやっとるな」などと話しながらのんきに見物していた。この飛行機がはるか東の方へ飛び去ってから、はじめて本物の空襲と知らされてびっくり仰天したのだった。  この空襲は、アメリカの空母ホーネットを発進した中型爆撃機B25十数機が、東京・名古屋・神戸などを襲ったもので、損害はごく軽微であったが、心理的影響は大きかった。そして防空演習などが盛んに行われるようになっていった。  その頃、軍から民家の天井板をはずすことが命ぜられ実行された。その理由は、焼夷弾が屋根を貫いて天井裏で発火したばあい、発見しにくく、消火しにくいということだった。(だが、実際の空襲に際してこのことが役に立ったということはついに皆無だった。)以後、私たちは風の強い日など、屋根裏から落下する土ほこりのため上を向いて寝ることも出来なくなった。  1944(昭和19)年、サイパン島が米軍の手に落ち、ここを基地とする超重爆撃機B29による本格的な空襲の季節が始まった。  名古屋にはじめて大空襲があったのは、この年の12月の13日で、その後も1週間ごとくらいのペースで数十機の編隊が来襲し、三菱の飛行機工場などを集中的に攻撃した。それに加えて、毎夜のように少数機が来襲して焼夷弾を落としていった。ようやく眠りについた頃、不気味なサイレンの音に起こされ、ラジオの「東海軍管区情報」に耳を傾ける。間もなく西の空から進入してくる敵機は探照燈に輝いて白く美しかった。悠々と東の空に飛び去る頃、町のどこかで夜空をこがす火の手が上がっていた。  年が明けて1945(昭和20)年も、当初は同じようなパターンが続くが、3月になると米軍は市街地全体を焦土とする作戦に切りかえ、百機以上の大部隊で主要都市に夜間攻撃をかけてくるようになった。  3月10日の「東京大空襲」で首都が大打撃を受けたあと、名古屋には3月12日、19日、25日と3回連続の夜間大空襲が繰り返された。  12日、19日とも、我が家は幸運にもきわどく焼失を免れたのだが、どちらの場合も四周から火が迫り、逃げるにも道を失って逃げそこない、止むなくバケツで消火活動をしているうちに、運良く風向きが変わって火が消えてくれ、危うく助かったのだった。  続く25日のことは、とりわけ鮮明な記憶が残っている。警報が鳴って間もなく、まだ防空壕に入っていない時だった。敵機の爆音が聞こえ始めたと思った次の瞬間、大音響とともに大地が波のようにゆらめき、つづいて瓦や木片、土砂などが音を立てて頭上に降りそそいできた。父母や兄弟も私も一瞬、声も出ず、伏せることも忘れて棒立ちになっていた。そのあとやっと我に返って防空壕に転がりこんだのだった。  この時、家から数えて6軒目、距離にして約40メートルの位置に250キロ爆弾が数発落ちており、町内でも何人かが犠牲となった。私たちの家族全員無傷だったのは奇跡的だった。しかし我が家はガラスの窓のほとんどが爆風で破れ、屋根瓦の多くが落下物で割れて惨憺たる姿になっていた。  4月以後も、さらに数回の大空襲が続いた中で、特に印象に残っているのが5月14日のものだった。この時は昼間であり、規模も五百機に近い最大規模の空襲だった。(この時、名古屋城も焼失した。)  高蔵寺の動員先の工廠に出勤(千種駅から中央線で通勤)してまもなく空襲警報がでた。警報が鳴ると工場の作業は中止され、裏山に作った「たこつぼ」に避難することになっていた。その日は五月晴れの快晴で、山から南を見渡すと、青く広がる平野の向こうに名古屋の町が、ほぼ地平線として横たわり、そこにわずかな突起物のように名古屋城や覚王山の配水塔らしいものが見てとれた。  西の空から銀色に光る敵機の一群が名古屋の上を通過していく。と、間もなく下からむくむくと黒煙がふくれ上がる。次の一群がやってくる、通過する、黒煙が上がる・・・ こんなことが朝から昼近くまでくり返され、ついに南の空全体が黒煙でおおわれてしまい、黒煙の最下部は赤い焔の色に染められるようになった。  その間、私たちは唯なすすべもなく自分たちの町が焼かれるのを「高見の見物」しているほかなかった。あの煙の中に父や母がいる。姉や弟も・・家もこんどこそはだめだろう。みんな無事で逃げていてくれ・・・そんなことを思いながら。  中央線はもちろん不通となり、帰りは級友たちと線路の枕木づたいに歩いて数時間かかって家にたどり着いた。矢田川の鉄橋を渡り大曽根に近づくと、けさ出勤の汽車の窓から見た町はもうそこにはなかった。見渡すかぎりの瓦礫の原に至るところに余燼がくすぶっていた。焼野原をたどって家の方に近づくころ、心配で胸が震えるような思いで足がひとりでに小走りになっていた。「あそこまで行ったら見えるはずだ、それとも灰になっているか、父母は・・俺は孤児になっているかも・・などと悪い予感におののきながら・・。  またまた奇跡だった。焼け残った我が家を見た時、思わずこおどりしたくなるほど嬉しかった。夢中で家へ駆け込んだ。家族も皆無事だった。手を取り合って無事を喜びあった。

《筆者の了解の上『語り残したい私の体験(第3集)』(愛知年金者組合 千種・名東支部 東・中支部)より転載しました。》

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妹よ
堀 弘子(東区徳川町在住)

1944(昭和19)年12月13日、名古屋 空襲さる。71機の攻撃をうける。(「三菱重工・大幸」を第一目標とする。) 12月13日 水曜日 晴 午後1時10分 警戒警報発令 午後1時40分 空襲警報発令 午後2時 敵機来襲。71機の波状攻撃をうける。 一番下の妹 芳子(三菱発動機徴用勤務)、夜10時になるも帰宅せず。会社に連絡するも状況把握できず、再度連絡して爆死を知る。
12月14日 晴 初雪 たまたま三軒お隣のお宅のお嬢さんもこの時爆死され、その御家族と御一緒に遺体に会いにゆく。霊安所とされた青年学校にずらーっと並べられた柩のあいだを、名前を確かめ確かめ探し歩く。 やっと見つかった芳子ちゃん。頭から左目にかけて真っ白な繃帯を巻かれたその顔は、とても美しくまるで眠っているようにおだやかに、白い顔、ピンクの頬、そしてかすかにひらいた唇は今にも話しかけそうに・・・。 会社のお話によると、「新しく大きく立派な防空壕が出来たので、小さな防空壕の芳子ちゃんの係の方達は皆その新しい壕にはいり、そして至近弾にて全員圧死された」とのこと。 芳子 享年16歳。 芳子ちゃんのこと 父はすでに亡く(昭和15年没。) 私たちは三姉妹。 長女 総領の甚六。 次女 しっかりしていて真面目。 三女 芳子ちゃんはやさしく努力家。 「ああ! あの日、会社を休ませておれば・・・」と、肺腑をしぼる母の言葉が重く心にせまります。 その日の朝、芳子ちゃんが「なんだか会社へ行きたくない、今日はお休みしたい・・・」といったのだそうです。 これを「虫の知らせ」というのでしょうか。 その日までの名古屋は、1942(昭和17)年4月18日に初空襲。2機の来襲をうけ(その時の犠牲者8名)、それからは被害を受けていないので、わりあいのんびりしていました。 そしてこの日から名古屋への大空襲がはじまり、その空襲の一番初めの爆弾の至近弾で圧死してしまったのだそうで、「せっぱつまった怖れを知らないままに、そしてあんなに美しい顔で逝ったということが、一つの救いなのだ。」と思っております。 この文を書くために、セピア色の思い出の頁を繰っておりますと、お下げ髪にセーラー服の彼女が、なんとなく淋しそうなまなざしで、遥か遠くを見ているように思われます。 軍国少女としてすなおに育てられ、「南方の兵隊さんを思い、自分も南方へ雄飛し、高い理想を持って、南方の国の子どもたちを可愛がってやりたい。」と日記にしるし、また遺された和歌のかずかずは、恋知り初めし乙女の想いあふるるものばかりでございました。 今私の胸にひたひたと寄せる悲しみ、哀しみ、憤り!・・・。人間が人間らしく生きるため、生命あるもののすべてのために、永遠の平和を心より祈念いたします。

《筆者の了解の上『語り残したい私の体験(第3集)』(愛知年金者組合 千種・名東支部 東・中支部)より転載しました。》

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養念寺住職さん

平和を願って
養念寺元住職 富永 伸(のぶる)

太平洋戦争中昭和20年には、名古屋はたびたび空襲を受け大きな被害を受けました。 名古屋には当時最大の航空機工場(三菱発動機)があったので、首都東京と共に最も多くの空襲があったのです。昭和20年1月23日の空襲で養念寺にも爆弾が落ち、玄関が破壊され、その後、3月24日には夜間の大空襲があり、大被害を受けました。 当時、養念寺では父(前々住職)は応召により不在、妹の宗子は縁故疎開、寺には祖母78歳、母40歳、私 伸(のぶる20歳)、妹(18才)、弟15歳、次弟7歳、妹2歳の7人がいました。ほかに三菱発動機工場の少年工が7〜8名いました。 東区は、港から入ってくる敵機が大曽根の発動機工場へ向かう道筋に当たるため、何回も空襲を受けました。 九死に一生 「わァー、仰山来るぞ〜」兄の声につられて壕から抜け出し、防空頭巾をまくり上げるようにして南の空を見上げてゾクッと震えを覚えました。 昭和19年12月3日午後早々の晴れた名古屋の空を遥かに高く、三機づつの編隊が、唸るように爆音を響かせて、一つ、二つ・・・と十数組の梯団で各機それぞれ四筋づつの飛行機雲を吹き出すように後ろに引きながら整然とこちらに向かって進んでいるではないか。編隊の周囲のあちこちでボッボッと高射砲弾の白い爆煙が昼間の花火よろしく点々と散っていくが高度が違うのだろうか編隊は意に介する気配も見せずに進入を続けてくる。 「あんた達、はよ入らないかんよ!」玄関の床下の防空壕から母が叫んでいる。 「大丈夫だよ。あいつは少しズレとる」「アッ、兄ちゃん、次のは真っ直ぐみたいだ!」「うん、一寸危ないナ」しばらく2人で梯団の1番右外側を飛んでいる奴の進路を目 追っているうちにも敵はどんどん直進を続け、遂にどうみても私たちの真上を通過する のも疑う余地は完全になくなってしまった。「やっちゃん、こらいかん!はよ入れっ!」兄に押し込まれるようにして防空壕へ飛び込む。「真っ直ぐ来とるぞッ!みんな気をつけろ!」兄の声に、箱に収めたご本尊と過去帳の風呂敷包みを真ん中にして狭い壕内で肩を寄せ合った家族7人が一斉に身構える間もあらばこそ、ザザザァーとなんとも不気味な音が頭の上で段々大きくなってくる。「来たョー、みんな目と耳を押さえてーッ!」母の絶叫に両膝の間に防空頭巾を埋め込むように身体をかがめて両手の指で目と耳を力の限り抑え込む。続いてザザザァーがガガガーに変わったと感ずる間もなく、ゴワァーン! 「むっ、むっ」何がどうなったのか一瞬息も出来ない。「のぶちゃん、おさちゃん、やっちゃん、大丈夫かッ!」母の声に「大丈夫ッ!」「うん!」「はよ、外へ!」「ダメだッ、出口がないッ!」「上へ出ろッ!」 床下に穴を掘って梁を渡した上に古畳を重ねるだけの簡易防空壕のお陰で、みんな次々に上へ脱出することが出来たが、縁の下から這い出てみて皆一瞬目を疑った。 もうもうと砂煙が立ち込める中で、本堂と庫裡の間の大玄関が完全になくなって、裏の庭が丸見えになっているではないか。本堂は三分の一を破壊されて壁が地に垂れ下がり、庫裡も二階が半身を剥ぎ取られたように無惨な姿をさらしている。暫く呆然の後、爆弾痕を覗いて改めてゾーッとさせられた。 私たちの防空壕の出口がなかったのも当然で、250キロ爆弾が炸裂した痕の摺り鉢上縁の北端が、防空壕南西端の上端に30センチ程かかった出入り口が潰されてしまっているのである。暫くは足の震えをとめることができなかったが、今にして思えば、あのB29の爆撃手の指がもう何百分の一秒か投下ボタンを押すのが遅かったか、あるいはあの時、名古屋の南風がほんの少し強く吹いていたかしたら、私の家族は応召中の父と学童疎開中の上の妹を除いて、すべて12月13日を命日にしていた訳だ。 また、翌年三月の夜間空襲でも、境内に爆弾と焼夷弾を見舞われたが、其の時の爆弾は炸裂痕が浅くて横に広がる瞬発型(米軍は日本家屋向けのタイプをいち早く開発)であったのに対して、それに三か月先立つ当日の爆弾が摺り鉢の深い(鋭角型の)施設攻撃用のものであったことにも大いに幸いされたのである。3月24日夜は、爆弾は本堂の前に落ち、そこにあった防空壕に入った筈の行員さん達(当時、養念寺は三菱で働いていた少年工の宿舎になっていた)は全員爆死しました。門前の防空壕でも二人亡くなりました。この爆撃で本堂は全壊し、寺の家族だけは奇跡的にも助かりました。 しかし周囲の状況から泊まることは不可能と思い、ご本尊を収めた箱と過去帳を持って親戚の崇覚寺(中区東橘町)へ7人が避難することにしました。崇覚寺は東別院のすぐ西で、どうなっているのか分からぬままに、行く先もない我々は兎に角、空襲の続く中を必死で走りました。有難いことに崇覚寺は無事に残っており、私達は当分そこに仮住まいをすることになりました。 養念寺報2009年4月13日号、2007年7月25日号参照

「ところで玄関の鐘ですが本堂の軒に吊り下げられていた「喚鐘」という鐘で、爆弾の破片が貫通したのです。この鐘には「享保17年・・・」の銘があり、そのためか供出をまぬがれたようです。戦争の恐さ・悲惨さを忘れないために、目撃者であり被害者でもあるこの鐘を、先代住職のときから残して大切にしています。」

梵鐘

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斉藤昌子さん

斉藤昌子
大正10年生れ(87歳)
東大曽根町在住

当時は北区辻町にあった大隈鉄工(現在は大口町に移転)に女子挺身隊として招集されていました。16歳の時に裁縫所に住み込みで入り、6年間修行しました。帰ってきて、これから家で仕事をしようとしていた矢先に挺身隊に招集されたのです。大隈鉄工では最初は管理官室に配属されました。管理官室は工場を管理するためにいる兵隊が詰めている部屋で、特に事務仕事などはなく、兵隊さんたちの弁当を注文したりするのが仕事でした。豪華な弁当で、(物資も)有るところにはあるものだとはらがたちました。タバコなどもいくらでもありました。少尉さんが工場の中を点検して回るのですが、予め目をつけていた人を呼びつけて殴ったりするのです。それを見るのが嫌で嫌で堪らず、頼んで庶務課に移してもらいました。その後、鶴舞にあった産業報国会に出向させられました。そこでは各工場などへ、いろんな物を届けるのが仕事でした。犬山の警察署へ、ビール券を届けさせられたことをよく覚えています。暑い中を、自転車で犬山まで行きました。砂糖水を出してもらったのですが、それの美味しかったこと。今でも鮮明に覚えています。また、ピーナツが部屋の中に山ほど積んであってビックリしました。空襲があった時などにも休まずに出勤した時など、そのピーナツを少しだけど分けてくれたことなどがありました。 家は上飯田にありました。父は(太平洋)戦争が始まった時、「これは日本は負ける。大人と子どもの喧嘩だで」と言った。私はそんなこと公にいったら憲兵に引っ張られるから言わんどいてと言った。私は日本が勝つとおもっとったし。あっちでも勝った、と戦果があがっている放送ばっかりだったし。日本が負けるなんてまったく思っていなかった。物資はなく、母が持っていた純金の指輪や、桐の火鉢で赤銅で細工したものも供出させられたりしました。 今の大曽根中学校があるところに当時は高射砲陣地があり、そこから直線で100Mほど離れたところに、父と母と一緒に住んでいました。兄は招集されて中国海南島に海軍の警察として出征していました。大隈鉄工の上飯田工場というのが、今の第一病院の東側ぐらいにあった。 空襲の時には防空壕に逃げ込むのですが、ある時警防団の人が「防空壕に入っている人はすぐに出てくれ」と声をかけてくれたことがありました。外に出てみると焼夷弾が落ちて周囲は燃えていました。その中を矢田川に向かって逃げたのですが、あのまま防空壕の中にいたら、火に巻かれて逃げられなかったと思います。 焼け出されたのは5月14日の空襲です。焼夷弾が空中で弾け、まるで花火の火の粉が飛び散るように「シャー、シャー」と降ってくる中をかいくぐりながらひたすら矢田川に走って逃げました。悲惨だったのは、背負っていた赤ちゃんの肩に焼夷弾があたって、気がついたら赤ちゃんの手が片方なかったお母さんがいたことでした。赤ちゃんはショックが大きかったのか泣きもしなかったので、母親は気づきもしなかったのです。また、あわてて潜り込んだ防空壕が直撃を受け、死んでしまった友達もいました。私の家は完全に燃えてしまいました。たくさんあった写真や、過去帳なども焼けてしまい、先祖のことが分からなくなってしまったので悲しい思いをしました。この日の空襲では、名古屋城が焼けました。後で聞いた話ですが、西区の四間道あたりの人たちは、焼け落ちるお城を見ながら般若心経を唱えていたそうです。 空襲の後、1週間くらいは近くの焼け残ったお宮さんの拝殿で過ごしていました。食べる物も無く、2〜3日は水だけ飲んで過ごした記憶があります。そうこうしている時に、大隈鉄工での知人が探しに来てくれました。この人は、元憲兵で上官と喧嘩して殴り、辞めさせられたといういわくの持ち主でしたが、大変に面倒見のよい人でした。「うちは焼けなかったから、うちに来い」と親切に声をかけてくれたので、両親とその人の家に行きました。その人の家には、他にも焼け出された人たちが10人程いました。すいとんを食べさせてもらって、風呂に入れてもらって、ようやく人心地がついた思いでした。 あまり長くやっかいになることはできなかったので、そこも3日ぐらいで辞して焼け跡に戻り、焼け残ったトタンなどを集めてきてバラックを建てて住みました。燃料なども全くなかったので、不発だった焼夷弾を拾ってきて燃料にしました。焼夷弾の中は「ドロドロの飴」状のもので、火をつけるとよく燃えました。 終戦の時の事はよく覚えています。ホントにうれしかった。これでもう防空壕に逃げなくてもいいし、ホントにホッとしました。 新しい憲法が公布された時のことはまったく記憶にありません。おそらく、食べていくことに必死な時代だったからだと思います。配給されたビールを買い集めて、料理屋に持って行って売りました。風呂敷にビール瓶を3本包み、両手に3本づつぶら下げて、電車に乗って売りに行くんです。料理屋では喜んで買ってくれました。産業報国会で汽車の切符の証明をしてもらって、長野でリンゴを買い出ししてきては、それを売りさばく人のところへ持って行ったりして、いわゆるヤミと言われる様なこともしました。見つかると米は没収されましたが、果物は没収されませんでした。物がなくて、こうした事をしなければ生きていけない時代でした。兄は中国で捕虜になっていて、終戦から1年半〜2年ぐらい経ってからようやく帰ってきました。 今の大曽根町に移ってきたのが昭和25年です。ここは空襲で焼けたと言うよりは、輸送の邪魔だというので、名鉄の線路の周辺の家は、軍によって強制的に壊された、そういう所でした。ここで和裁の教室を開いて生計を立ててきました。「4トントラックいっぱいの女に男が一人」といわれるような時代、生涯独身できました。(憲法)9条については「ああそうか(戦争放棄)」と、思ったことがあり、内閣が替わったり、憲法を変える話がいろいろあるたびに意識してきました。 戦争というのは本当に嫌です。もし私に息子がいたら、戦争なんかには行かせない。外国に逃がしてでも行かせたくない。自分が殺される、自分も人殺しになる、それが戦争というものだ。 (聴き取り・文責 東雅明、金野美智子)

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私が「憲法9条」を死守しようと思う訣(わけ)
内海明子(東区砂田橋)

現在75歳の私が小学校6年の3月の暮れだった。とりわけ、ひどい米軍の空襲が真夜中に行われた。B29の飛行音の「ウネリ」が私たちに即座にわかる。家の玄関前の通りは大久手、青柳、春岡通り、丸山近辺から逃げてくる一、一、人でごった返していた。 東を指して向こうだ!向こうだ!と叫びながら、我先にと走り続ける。百b先には山崎川がある。子どもの手を引く人、赤ちゃんを背負っている女の人、道具類を抱えた男の人々。当時の我が家は八人家族。 母は兄弟六人のうちの下の子どもを、父と私たち三人を残して岐阜県の山奥の知人宅に避難させていた。残された父子四人(父と二男一女)。 父と兄(旧制中学二年)は住家を守る?ため残って弟と私は逃げることを命ぜられた。私はトランクを下げてたくさんの人々が指す方向に逃げた。トランクの中には今年の春から着衣する母の作ってくれた女学校の制服のみが入っていた。弟は小学四年生。恐怖のあまり真っ青な顔をしていつもの腕白さも失い、私の言うままに従って後に付いてきた。さてこの時代の道路は概して道幅は広く、全てアスファルト化されていないのが通常。東へ、東へ走ると道幅のやや広い橋がある。その土手べりには逃げてきた人々がいっすいの余地無い程、折り重なって座り込んでいる。橋を越えてさらに数百b先には道が左右二手に分かれている。まっすぐ行けば伊勝の山、当時の名古屋大学裏手には民家は一軒もない(林と畠のみ)が拡がっている。父の命令通りすればこちら。みなは揃って右行きを選んでいるのに私たち二人だけで、家も途中一件とて無い、左、を選ぶことは出来なかった。そして、小高い山の下方にある横穴のある場所に右回りした。そこから、今来た道を眺め渡すと猛烈な勢いで真っ赤な火をあげて燃え盛っている。 「もう家もやられたね』と話しながらその燃え上がる火をいつまでも眺め見つめていた。そして名大方向に逃げた人は一人もいなかった。 やがて「夜明け」と共に空襲警報が解除されぼちぼち帰宅する人もいたが私たちは「どうせ焼けた家だからゆっくり帰ろうよ」と緊張感もゆるんだまま。それが父と兄にひどい苦痛を味合わせたことを後で知ることになる。 市内無差別爆撃が始まったある日の午後、遅くに勤労動員中の兄(旧制中学二年)がしょげた姿で帰宅した。そして、父をのぞく私たち家族の前で悲壮な面持ちで語り始めた。その日は米軍の猛烈な勢いによる工場爆撃があった日である。道路を抜けて逃げまどう女工さんたちをめがけて、何弾かの爆弾が投下され、女工さん、学徒動員中の女学生など大勢の人たちがそれによって殺された。爆風によって投げ飛ばされ電柱の上方、中方に釣り下げられたままの遺体があちこちにあり、その情景はすさまじかったという。当時、軍需工場の爆撃は主に昼間、一般市民への爆撃には焼夷弾を用い、主に夜間であった。どんなときも一般人は素手でしかない。成人男性は働きよいように、すねにゲートルをまき、女性はもんぺをはいた。せいぜい持ったとしても竹槍と防空頭巾である。一方の攻め手は飛行機に何百dの爆弾、焼夷弾を何百個と積み込み、容赦なく私たちに襲いかかる。かくして、短期間に何百万人の尊い命が奪い去られたのである。両親もさすがに苦慮、田舎に親戚、知人はない。早速、知人の紹介を受けてA市の大きなお菓子展の倉庫の二階(八畳二部屋)へ疎開することになった。このときも父と兄二人は家に残った。私はA市にある高等女学校に入学する。 この年の5月に名古屋空襲をほぼ終えた米軍は名古屋周辺の市や郡にねらいをつけていたのか軍需設備を持つ工場が次々に狙われA市はその航路となって、空襲警報と機銃機射の雨で油断できない毎日である。この年の八月広島と長崎には新爆弾が落とされ市内のほとんどが焦土と化した。そして終戦を迎えた。 こんないくつもの体験は内地でのことだ。戦場ではこれらに比すべきもない過酷悲惨さがそこここにあり多くの命を無駄にしたし、沖縄戦ではどうだったか!再び戦争をしてはならない。「戦争」を忘れかけているのか、この悲惨さを知らない人たちが増えていて我がこととはとても考えられないでいる。私は「戦争は再び起こさない」と誓った。何よりも「憲法9条」を死守したいのです。

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憲法9条ができてよかった
北条昌(1920年生まれ 88歳)代官町在住 製餡業

先代(義父)が、大阪で修行をし、名古屋に戻って代官町で開業しました。名古屋大空襲の時、近所の住居が炎上したが、幸い自分の住まいだけは難を逃れ、親戚を頼りに幼い子どもを連れて歩いて上飯田までリヤカーを引いて歩いて非難し、その後、長野へ疎開しました。 疎開先の長野では、戦禍も少なく、食料も豊富だったので、それほど食べることには困らなかったが、戦後、名古屋へ戻ってきてからは苦労の連続でした。 軍需品生産のため、餡の製造に必要な鍋などは全て没収されており、すぐに事業を再開することはできず、ご主人が大政翼賛会に入り、給料をもらってくる一方、義父が少しずつ道具を集めて事業を再開しました。 ご主人を、病気で早く亡くしてからは、義父と一緒に事業を盛り立てていきました。 名古屋では、早い時期に学校給食が再開され、餡パンが給食に取り入れられるようになって製パン業者に餡を納入するようになり、事業が軌道に乗るが、春日井にある製パン業者に餡を納入するのに、当時は自転車にリヤカーをつけ、小柄な体で、天神橋を渡るの、通行人の手を借りて渡るなど大変な苦労をしていました。 事業が、軌道に乗り始めた頃、税務署の徴税攻勢にあい、重税反対運動に参加し、民商に入会しました。 民商運動に参加しながら、業者婦人、母親の地位向上運動にも積極的に取り組み、世界母親大会に代表を送るために大活躍しています。 憲法9条ができた時には、『これで平和に暮らせる』と、喜んだといいます。 戦後事業を行っていく中で、『誰もが安心して過ごせる社会、特に母親が安心して家庭のことができる社会にしていかなければならない』と強く感じたそうです。そのためにも、憲法9条はなんとしても守らなければならないと離していました。(聞き取り・文責 河野義昭)

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9条の会をPRして再び戦争を起こさないでほしい
平野鈴子(東区出来町)

私は大正14年(1925年)多治見市で生まれました。 田舎に住んでいましたので悲惨な空襲体験は受けていませんが母の兄弟が戦争で亡くなっており「連れあいを亡くした時に手に職を持っていた方がよい」との母の思いがあり、先生を養成する女学校生活を4年過ごしました。 戦時中の女学校時代は重いものを持って走ったり、長距離を歩く訓練など、大変でした。また、予科練の人が風車のようなものに体をゆわえつけ、体をくるくる回している訓練もみました。 自分の小学校5〜6年生の頃は歴代の天皇の名前を暗記させられたり、今思えばあれはなんであったかと思います。教育勅語も難しいことをいっているなあと思いながら試験に出るので覚えました。 天長節(天皇誕生日)や紀元節の日、など学校正面そばに設置してある奉安殿から校長先生が白い手袋をはめてうやうやしく巻物(教育勅語)を出してきて全校生徒直立不動のもと読み上げていました。 教職の仕事に就いてからすぐ終戦を迎えました。 内外の国民が大きな犠牲を払ったあのような時代を二度と繰り返してはいけません。私はアカハタ新聞を読む中で世の中の動きを理解し、歴史の真実を知ることが出来ました。9条の会をPRして再び戦争を起こさないで欲しいのです。 私も出来ることは努力したいです。
(2008年1月14日 聴き取り 繁沢)
ご自宅で闘病生活をされながらも目は生き生き輝き、凛とした居ずまいで語って下さいました。 厳しい体の状況にあっても、「平和を守るため私も努力したい」という熱い思いに励まれました。 2008年2月16日  逝去      82歳

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戦争のことを思うと腸(はらわた)が煮えくり返るような憤りを持って今まで生きてきました
鶴田昌枝(91歳)東区矢田在住

大正7年、私は新潟県南魚沼郡で生まれ、姉が尋常小学校を卒業して紡績女工として名古屋の西区で働いていたので二十歳頃、姉の家の手伝いに名古屋にやってきました。あの頃は否応なくあちこちから紡績女工を連れてきて、多くは寮生活を強いていました。 その後、私は結婚をして千種区(千種橋近く)で暮らしていました。6〜7年の結婚生活でしたが1945年に最後と思われる「赤紙」が来て、主人は徴兵されて満州へと送られました。 送られるとすぐ終戦になりましたが、主人はシベリアに抑留され、帰ってきませんでした。抑留とは名ばかりの捕虜でした。 4年後に主人は病院船で帰国してきました。腹をすかして何も食べるものがなく、シベリアから栄養失調の病人となって帰ってきたのです。当時、馬の糞がジャガイモに見えて困ったといっていました。 そして、現在の国立病院近くにあったと思いますが、ずうっと衛戍(えいじゅ)病院(三連隊の中にあった)通いをしていましたが5年後に亡くなりました。主人の人生は何も良いことはなかったように思います。 その上、夫の軍属を証明するものは何もなく在郷軍人の証明もありませんでした。何度も何度も役所に出向いて話をしましたが、らちがいかなかった。軍人恩給や遺族年金のようなものもなく、戦後の生活は大変でした。 残された私はやり場のない心の重荷を背負うことになり、今に至るまで煮えくりかえる思いを抱いています。主人が亡くなってから東区(現在地)に引っ越してきました。 母子生業資金をもとに細々とミシン仕事で生計を立て、それは子どもたちが結婚するまで続けました。 戦争のことを考えると、戦争中はみんなが夢中でしたが戦後も厳しい生活がおおいかぶさり、戦争は絶対あってはいけないという思いです。 「昔のことはもう忘れてしまった」とおっしゃりながらトツトツとしっかり話される言葉に私の郷里の母の姿がダブり、身につまされるような気持ちで伺いました。 (文責 繁沢)

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丸井広孝さん

我が青春に悔い有り
丸井広孝

青春は未来を想い、壮年は現在を語り、老人は過去をしのぶと言われているが、過去の戦争でのヤルート島の思い出は尽きない。参戦した島の生活は、私にとっては青春をかけた激動の時代であった。毎日が生と死の境をさまよう極限状態の中にあり、その思い出の一つ一つがあまりにも強烈な映像となって60余年以上心の中に焼け付いているからである。 開戦以来、大本営陸海軍部の発表はいつも「○○方面にて敵に多大の損害を与えたり。我が方の損害は軽微なり」であり、その後には勇ましい軍艦マーチが音高く鳴り響いていた。 しかし戦況が次第に悪化する昭和17年(1942)9月に歯科大学を6ヶ月繰り上げられて卒業、一週間後の10月1日、私は中部二部隊(現在の県体育館付近)に現役で入営した。22歳であった。初年兵教育は想像を絶する程過酷であった。腰骨が折れるくらい重い背嚢(はいのう)を背負い、流れる汗が塩になる程の行軍、駆け足、足には靴ずれで血がにじむ。食事も一食二合の麦入玄米食を4〜5分間で流し込む。遅いと「新兵のくせにタルンでおる」と何かにつけビンタの嵐。消灯ラッパのメロディーに心が癒され涙がこぼれる。南京虫に悩まされ、火の気のない寒さになかなか寝付かれず、寝小便する隊員もしばしば。廊下の清掃には「濡れて冷たい雑巾を持つのがいやで箒(ほうき)を持っている奴がおる」と整列させられ、ビンタが飛んでくる。それ以後、冷たい雑巾を腹に巻いて寝ていた。今でも古年兵殿の顔は忘れない。 一期検閲(入営して約3ヶ月間の訓練が終わるとこの検閲が行われ、通れば一人前の兵隊として扱われる。)が終わり、昭和18年(1943)5月1日、宇品港で南海第一支隊に編入され、輸送船盤谷丸(ばんこくまる、6000トン、1200名)に乗船し、出港する。太平洋のうねりを乗り越え、サイパン島をはるか沖合に眺めつつ進み、トラック島に停泊、上陸、久しぶりに入浴する。5月16日出航、一路中部太平洋英領ギルバート諸島のマキン島、タラワ島へと向かう。途中マーシャル諸島ヤルート島に寄港する1時間前の沖合で、米潜水艦の魚雷攻撃3発を受ける。後部より瞬時に海底の藻屑となる。高波に押し出された私は海中でもがく。人らしき足に触れる。「溺れる者藁を持つかむ」で、無我夢中で泳ぐ。そのとき海中が明るくなり自力で水面へ首がでたときには盤谷丸の姿はなく、野菜籠、甲板にあった物置のトタン屋根、人が浮かんでいる。私はロ(ろ)の字型の20人用筏に自力で掴まった。あー生きていて良かった。何も要らない。命があって良かった。私の願いは唯一つ「生きたい」であった。禅寺のお坊さんのように無我の境地にはなれない。軍人精神をたたき込まれたはずだが、母父そして家族、苦楽を共にした戦友のことだけが思い出される。大きなうねりに救助を待つがいろいろ雑念がわいてくる。 そのうちに「海行かば 水漬く屍(みづくかばね)」の合唱。戦って死ぬならいい、こんなにやられて死ぬのはいや、現実に「海行かば」ではないか。もっと明るい歌をと叫ぶと「暁に祈る」を皆が歌い出す、大合唱。筏に掴まること3時間、マグロ船に救助される。島に着いた時には、大きな大きな丸い月が昇っていた。生存者は1200名中、290名、昭和18年(1943)5月20日の出来事だった。 17年10月入営の同年兵8名中私だけが助かった。大正末期に生まれた人達で、その短い人生は戦争のために生まれ育ち、そして戦争によって人生が終わってしまう。あたら若き命を南海にへ沈めてしまったのである。両親、兄弟姉妹、妻子、恋人を残して散っていった戦友の気持ちは如何ばかりか。また残されたご遺族の方々の心情を想えば目頭に涙がにじむ思い、ご冥福をお祈りする。 救助されたヤルート島は日本から1660qの委任統治地、赤道直下の椰子の木が茂り、海は熱帯特有のエメラルドグリーン、魚や蛸が泳ぐのも見える海抜1.4メートルの美しい小さな島だったが、太平洋の東南を守る一要衡であった。4発の二式飛行艇や零戦が配置されている基地で、私は海軍病院歯科勤務、軍人、軍属、軍夫、島民の治療に従事していた。 次第に戦況が悪化し、昭和18年(1943)の末には、我々の目的地であったマキン島とタワラ島の日本軍守備隊が玉砕した。私は潜水艦に撃沈されたおかげで命拾いしたのである。複雑な思いだった。ヤルート島でも、連日の対空戦闘で茂っていた椰子の木も兵舎や施設も吹き飛び、島はほとんど形を変えて穴ぼこだらけになった。つい先ほどベートーベンの歓喜の歌を楽しそうにハモっていた戦友が対空戦闘配置につき、激戦終了後の人員点呼には姿がない。爆撃でバラバラの遺体を集める。戦争は悲惨だ。食料、衣料品、弾薬も乏しくなる。病院では被爆して歯牙破折(しがはせつ)の抜歯、大腿部の切断手術、眼球摘出手術も無麻酔のもとで執刀される。鬼手仏心、生き地獄。今でも手術中「殺してくれ」「助けてくれ」と叫ぶ戦友の声は忘れられない。 食料もなくなり、犬・猫・ネズミ等も食べ尽くし、骨に皮膚が張り付いた飢餓状態であった。それでも米空軍と連日のように対空戦闘を行い、その合間に野菜を作った。たまには発破(はっぱ)や手榴弾で魚を捕って刺身や塩辛にした。また椰子の木に登って椰子密をとったりした。ドラム缶に雨水を蓄え、ぼうふらが湧いても飲料水として飲んだ。 蒲鉾形の防空壕に英霊の遺骨と非常食の乾パンが収納されていた。その防空壕が爆撃で吹き飛んだ。砂利、遺骨、乾パンを掻き集めて篩いにかけ、コップ4分の1の量が朝食、水を注いで浮いた乾パンはすすり、骨は集めてヤルート防備武体の墓に収める。3日間続く。まさか戦友の骨まで食べようとは悲愴の極みだ。 昭和20年(1945)6月になると、「ペンシルバニア」級(31,000トン)と思われる戦艦がやってきて艦砲射撃を浴びせてきた。そのためコンクリートを用いて堅牢強固に作られたいろいろな施設に大きな被害が生じた。いよいよアメリカ軍が上陸してくるなと覚悟した。恩賜のタバコをもらい、みんなが無言で吸った。 何度もの爆撃で建物は吹き飛んでしまった。椰子の木で掘っ立て小屋を建て、地面に葉っぱを敷き毛布にくるまる。寝ながらにして南十字星を初めとして満天の星を眺めて戦友の話を聞く。故郷、妻、親兄弟、恋人、そして食べ物の話をあきもせず聞き、望郷の念を掻き立てるのを日課とする。 ところでヤルート島は米軍にとってどのような存在であったのだろうか。当時の米軍雑誌に「故人略伝」と題して、次のような記事が出ていたという。ヤルートの島は全盛期には日本機の不沈空母と呼ばれていたが、我々アメリカ空軍の爆撃を食らいすぎて死んでしまった。だが我々が近づくと白骨をならしながら起き上がって刃向かう恐ろしい島だ、と。 升田司令閣下、古木部隊長、藤田中尉、勇敢なる宮下隊長、海軍病院の三好大尉、それに多くの良き戦友に巡り会えたことは、私の人生にとって忘れられない有り難いことであった。ヤルートで培われた不屈の精神は一生離さない。あの長くて暗い苦しい時代があってこその平和であり、有難い。いつまでも太平洋の波は静かであって欲しい。太平洋に命を捧げ戦友の為にいつまでも平和であって欲しい。私はアメリカに戦争は嫌いだ、I HATE WAR! と大きな声で叫びたい。我々国民の犠牲から生まれた憲法、憲法第九条 永遠なれ

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